山﨑隆正
「Footpath: よくみることの景色」
藁沓(たらしべ・たらこしべ) 昭和末期 – 平成初期 藁(餅米の藁)
What we learned from Aburaya-san
これは、藁沓 ( わらぐつ )。よそ行き用のものであって、日常的に履くものではない。というくらいに美しくつくられたものだそう。
藁沓をつくることが生活から失われた。昭和の終わりか平成のはじめに秋田県横田市大森町にある酒販売店の主人がつくった。製作者の Tさんの娘婿が油谷さんの知人だということで、コレクションされた。
秋田県南部、そこに広がる田園ではかつて百数十種類の米を育て、ただ食すだけではなく米の副産物である藁を素材として様々な道具を生活の役に立てた。かつては稲作そのものが日常に溶け込んでいたのだ。
雪が辺りを覆う時期、冬の仕事での藁細工は春に向けての大切な準備だった。この藁沓は今ではほとんど育てていない餅米の稲藁、餅藁でつくられている。
多くの餅藁の中から、状態の良いものを選りすぐり丁寧に編まれたのだと油谷さんは語る。多様性が叫ばれる現代、秋田での稲作においては数種類のブランド米が栽培されている。
かつての多様性を持った田園にいた米たちは、多収穫と台風などの災害に強い稲に置き換わり、人間の社会は利便を求め、品種改良と工業的農耕の為に技術を行使した結果、今はみることのできない様になった。 ただ、この藁沓はそんな失われた手仕事の技術を今に垣間見、未来に託すための生活文化財である。
Concept development
目で考えること、よく観ることは失われた D.I.Y 精神を体得する。
Our story
道具は 素材、つくりかた。それを取り持つ技術とで構成される。
田園風景と藁細工が同じ近隣にあり、そこには伝統のオープンソースがあった。
現在、それにあたるものは何だろうか?僕はホームセンターがそれにあたると考える。
素材が有り、様々な目的で獲得できる。そして各々、生活の為に自分の身体で開かれた技術を持ってして役にたてていく。
ものがそこにある。それと向き合い続けることで、これまで油谷コレクションは育ってきた。ものが展示されている。博物館や美術館で、収蔵品として、美術作品や民藝品として。
ものとひと、向かい合う時、間には自ずと物語が生まれる。それが展示である時、説明:キャプションは、それぞれの物語に過剰な影響を与える。
キャプションというメディアの目的が説明ではない場合、ものと向き合うそのまなざしは自由を獲得するだろう。散歩をする様に、景色を眺める様に、ものをよく観る。
鑑賞という行為の中に失われた解釈を D.I.Y する精神が必要なのだと思う。それが何かかは分からないが。
今回の展示では、よく観るための景色としての「キャプション」をつくった。
山﨑隆正
「Footpath: よくみることの景色」
藁沓(たらしべ・たらこしべ) 昭和末期 – 平成初期 藁(餅米の藁)
What we learned from Aburaya-san
これは、藁沓 ( わらぐつ )。よそ行き用のものであって、日常的に履くものではない。というくらいに美しくつくられたものだそう。
藁沓をつくることが生活から失われた。昭和の終わりか平成のはじめに秋田県横田市大森町にある酒販売店の主人がつくった。製作者の Tさんの娘婿が油谷さんの知人だということで、コレクションされた。
秋田県南部、そこに広がる田園ではかつて百数十種類の米を育て、ただ食すだけではなく米の副産物である藁を素材として様々な道具を生活の役に立てた。かつては稲作そのものが日常に溶け込んでいたのだ。
雪が辺りを覆う時期、冬の仕事での藁細工は春に向けての大切な準備だった。この藁沓は今ではほとんど育てていない餅米の稲藁、餅藁でつくられている。
多くの餅藁の中から、状態の良いものを選りすぐり丁寧に編まれたのだと油谷さんは語る。多様性が叫ばれる現代、秋田での稲作においては数種類のブランド米が栽培されている。
かつての多様性を持った田園にいた米たちは、多収穫と台風などの災害に強い稲に置き換わり、人間の社会は利便を求め、品種改良と工業的農耕の為に技術を行使した結果、今はみることのできない様になった。 ただ、この藁沓はそんな失われた手仕事の技術を今に垣間見、未来に託すための生活文化財である。
Concept development
目で考えること、よく観ることは失われた D.I.Y 精神を体得する。
Our story
道具は 素材、つくりかた。それを取り持つ技術とで構成される。
田園風景と藁細工が同じ近隣にあり、そこには伝統のオープンソースがあった。
現在、それにあたるものは何だろうか?僕はホームセンターがそれにあたると考える。
素材が有り、様々な目的で獲得できる。そして各々、生活の為に自分の身体で開かれた技術を持ってして役にたてていく。
ものがそこにある。それと向き合い続けることで、これまで油谷コレクションは育ってきた。ものが展示されている。博物館や美術館で、収蔵品として、美術作品や民藝品として。
ものとひと、向かい合う時、間には自ずと物語が生まれる。それが展示である時、説明:キャプションは、それぞれの物語に過剰な影響を与える。
キャプションというメディアの目的が説明ではない場合、ものと向き合うそのまなざしは自由を獲得するだろう。散歩をする様に、景色を眺める様に、ものをよく観る。
鑑賞という行為の中に失われた解釈を D.I.Y する精神が必要なのだと思う。それが何かかは分からないが。
今回の展示では、よく観るための景色としての「キャプション」をつくった。